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『野蛮なアジャイル』 天野祐介 著/翔泳社

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プロローグ 〜とある漫画喫茶にて〜

プロローグ全文公開

この試し読みの目次

2009年6月、東京・上野。私はスーツ姿のまま、漫画喫茶の狭い個室ブースに座っていました。

窓のないブースの中には、小さなデスクと椅子、そしてパソコンのモニターが一つ。周りからは、キーボードを叩く音や咳払いが聞こえてきます。私は革靴を脱ぎ、足を伸ばしました。靴擦れができていた足も、ようやく少し楽になります。

手元には、営業研修用に渡された既存顧客の名簿があります。一つ一つ真面目に訪問すると、たっぷり夕方までかかるでしょう。けれど私は、もう今日のぶんのアポは終わらせていました。名刺も必要な枚数は集めてあります。あとは夕方まで、ここで時間を潰すだけ。

私はエンジニアとして新卒入社したはずでした。それなのに、会社から命じられたのは一か月に及ぶ飛び込み営業の研修です。

正直、理不尽だと思いました。なぜエンジニアにそんなことをやらせるのか? だから私は自分なりのやり方でルールを変えることにしました。「野蛮なハック」とでも呼ぶべき方法で、研修を効率化したのです。

その結果がこれです。平日の昼間、スーツ姿で漫画喫茶にいる新卒のエンジニア。

パソコンの画面には、他社のエンジニアブログ1が表示されています。同じ新卒なのに、彼らは開発研修でコードを書いている。実際にWebアプリを作っている。それなのに自分は、営業の真似事をして、こんなところで時間を潰している。モニターを見つめながら、ふと思いました。「自分はいったい、何をやっているんだろう」と。

でも同時に、別の感情もありました。理不尽なルールに従うくらいなら、自分の信じる正しさを選ぶ。そんな粗削りで原始的な衝動です。

この衝動こそが、やがて私を長い変革の旅へと駆り立てることになる、最初の萌芽と呼べるものでした。

才能のない少年の、尽きることのない衝動

ここで少し、自己紹介をさせてください。

「何かを作りたい。エンジニアになりたい」。これは、私が物心ついた頃から、ずっと胸の奥に持ち続けている「衝動」です。けれど私は、その思いを形にするだけの才能や器用さをほとんど持ち合わせていませんでした。

静岡県の富士市で生まれ育ち、ごく普通の家庭で育ちました。スーパーエンジニアのルーツによくあるような「地元で神童と呼ばれていた」といったエピソードは、残念ながらまったくありません。

学校で賞状をもらったこともなければ、学級委員になったこともない。成績も中途半端で、友達も少ないタイプでした。興味を持ったことには妙に凝る性格で、小学生の頃には円周率を五十桁まで暗記したこともあります。かといって、それが何かの役に立った記憶はありません。そんな子供でした。

そんな頃、ゲームが動く仕組みにも興味を持ちました。ドラゴンクエスト、ファイナルファンタジー、クロノトリガー。王道RPGの世界に夢中になりながら、「このゲームはどうやって動いているんだろう」と素朴な疑問を持ったことがきっかけでした。

中学生になると、祖母に買ってもらったパソコンでプログラミング2に挑戦しましたが、入門書は難解で、環境構築すらできません。コンパイラをインストールする手順を何度も読み返しましたが、エラーメッセージの意味がわからない。そこから一歩も先に進めませんでした。私にとってプログラミングは、憧れの対象であると同時に、絶対に乗り越えられない壁でした。

それでも、コンピューターへの興味は尽きませんでした。ブロードバンドが普及し始めた時代、私は多くの時間をネット空間で過ごしました。いつかエンジニアになりたい。その思いだけは、ずっと消えることがありませんでした。

地元の進学校に進みましたが、勉強習慣がなく成績は低迷。興味のあることには時間を使えるのに、学校の勉強とは両立できない。正直にいうと、学校という場所があまり好きになれませんでした。授業で「正解」を教え、全員を同じ型にはめ込もうとするやり方に強い違和感を覚えていたのです。かといって、一芸に秀でるものを持っていたわけではありません。天才でもなければ、優等生にもなれない。そんな居場所のなさを抱えながら、鬱屈とした少年期を過ごしました。

なんとか地方の国立大学の情報科学科に進学しましたが、そこでも状況は大きく変わりません。Web2.03やSNSが勃興するエキサイティングな時代に、私は地方で取り残されているような焦りを感じていました。生活のためアルバイトに明け暮れ、大学の成績も芳しくない。

それでも、技術を学ぶことだけはやめませんでした。バイト代を貯めてMacBookを買い、書籍を読み漁り、毎日コードを書く。器用に生きることの難しさを感じながら、私はエンジニアへの憧れと「何かを作りたい」という説明のつかない衝動だけを、ずっと持ち続けていました。

サイボウズとの出会い

大学三年生の冬、就職活動が始まりました。狙いは東京の自社プロダクト開発企業です。選考は順調に進み、初めて内定をもらったのは、選考のために東京へ向かっていた高速バスの中。学校では評価されず苦しんだ自分の個性が、ビジネスの世界では武器になるかもしれない。そんな予感がありました。

その後もいくつかの内定を得ましたが、「ここだ!」という確信が持てる企業に出会えません。決め手が見つからぬまま、内定承諾を保留し、就職活動を続けました。

そんなときに出会ったのがサイボウズです。サイボウズはグループウェア4を開発する会社で、当時学生からの知名度は高くありませんでした。しかし、サイボウズ・ラボという子会社に所属するエンジニアの数名には見覚えがありました。

その中の一人が、当時、ブログ「IT戦記」やJavaScriptの技術記事で知られていたamachangさん5。自分の子供時代のあだ名と同じハンドルネームだったことからも勝手に親近感を持っていました。

そして、『コーディングを支える技術』の著者としても知られる西尾泰和さん6。彼のブログは日頃から読んでおり、学生時代にPythonについて技術ブログを書いたら、本人からコメントをもらったこともありました。

スーパーエンジニアとして知られる彼らと同じ場所で働いてみたい。そんな思いを胸にいざサイボウズ・ラボの採用ページを開くと、そこに記載されていたのは「天才求む」といわんばかりの高いハードルの募集要項でした。

博士課程修了、未踏スーパークリエータ、有名OSS開発者……。どの条件も、私にはかすりもしません。やっぱり自分には無理だ。そう諦めかけたとき、親会社のサイボウズなら新卒を募集していることに気づきました。ここなら、もしかしたら……。その場の勢いで、説明会へ申し込んでみました。

当時のサイボウズは、創業して十年程度の若い会社でした。説明会で会った社長の青野さんや副社長の山田さん、社員の方たちはみんな話が面白く、私はどんどん惹き込まれていきました。

開発フロアの見学に案内されると、エンジニアがカジュアルに挨拶をしてくれました。それが良い意味で「社会人っぽく」ない。スタートアップの勢いとも、大企業の安定感とも違う、不思議な居心地の良さ。「チームワークあふれる社会を創る」という理念にも、強く共感しました。ここで働きたい。直感的に、そう思いました。

他社から何社も内定をもらっているし、余裕だろう。しかし、そんな甘い考えは、選考が進むにつれて打ち砕かれました。就職活動全体を通しても、最も厳しい面接が待っていたのです。

エンジニア組織のトップとの面接では、「もっと基礎をしっかり学んだほうがいいんじゃない?」と痛いところを突かれました。学業を疎かにしてきたことを看破されたようで、恥ずかしさがこみ上げてきました。最終面接の手応えも散々。副社長の山田さんから、険しい顔で何度も問われます。「なぜ?」「どうしてそう考えるの?」。答えに窮して、言葉に詰まりました。

ああ、これは落ちたな。面接を終えて、確信しました。ダメだったけど仕方ない。他にも内定はある。そう自分に言い聞かせながら、東京の街を力なく歩いていたそのとき。胸ポケットの携帯電話が震えました。画面を見ると、サイボウズの電話番号。え、もう? 早すぎる。鼓動が跳ね上がりました。

「もしもし」

電話口から聞こえてきたのは、想像していなかった言葉でした。

「内定です」

一気に、嬉しさがこみ上げてきました。「行きます」。その場ですぐに、内定承諾の意思を伝えました。何事も中途半端だった自分が、唯一ずっと持ち続けてきた「何かを作りたい」という衝動。それが、初めて心から望んだ場所に届いた瞬間でした。

エンジニア、飛び込み営業をする

2009年4月、私は新卒エンジニアとしてサイボウズに入社しました。オフィスは水道橋。東京ドームが近く、ビジネスマンだけでなく学生や観光客でも賑わう街です。

初めての東京生活。会社が用意してくれたマンスリーアパートから、京王線の凄まじいラッシュに揉まれる日々。肋骨が軋むほどの圧迫感。足が宙に浮くほどの密度。「これが東京の通勤電車なのか」と絶望すら覚えながら、それでも期待と不安を胸に、社会人としての第一歩を踏み出しました。

最初の数か月は研修期間です。会社の歴史、ビジネスマナー、自社プロダクトの使い方。座学の日々が続いたある日、スケジュールに見慣れない文字が登場しました。

「営業研修」

ん? ビジネス職向けの研修の間違いだろう。最初はそう思い込んでいました。しかし、担当者の説明に耳を疑います。エンジニア職も含めた、全員が対象だというのです。

内容はこうです。都内の担当エリアを、飛び込み営業で回る。毎日最低五枚、名刺を獲得する。そして、受注金額を競い合う。

え? 飛び込み営業? エンジニアが?

周りの同期たちも、呆気にとられた表情です。しかし、すぐに「やるしかないか」という諦めの空気が広がりました。入社して初めてわかったことでしたが、当時のサイボウズには、ベンチャー特有の勢いと、どこか体育会系なノリが同居していました。8月の創業記念祭で、新入社員が「一発芸」を披露するのが恒例で、土日に集まって練習をしていたことからも、当時の空気感が伝わるかもしれません。

しかし、当の私はといえば、飛び込み営業研修の説明を聞かされたときから嫌で嫌で仕方がありませんでした。

なぜエンジニアにそんなことをやらせるのか?

職種を分けて選考する意味はあるのか?

もしかして研修を考えている偉い人はバカなんじゃないか?

そんなことまで考えました。それだけではありません。営業研修では毎朝、始業一時間前から日経新聞の読み合わせがあるというのです。そのために毎朝新聞を買い、読みながら出社しなければなりません。ただでさえ満員電車で疲弊しているのに、さらに早く出社して新聞を読むのか……。

その間も、SNSには他社の新卒エンジニアたちの楽しげな投稿が流れてきます。Rails7でアプリを作った。会社のシステムにDjangoで機能を実装した。先輩からレビューを受けてまた一つ成長した。彼らが技術的に成長している間、私はスーツを着て、靴底を減らして、飛び込み営業をすることになる。

自分はいったい、何をやっているんだ?

焦りと惨めさに、押しつぶされそうでした。しかし無情にも、飛び込み営業の日々は始まってしまいました。

初日、担当エリアの上野を歩きながら、当てずっぽうで雑居ビルに入りました。エレベーターが開いた瞬間、目の前に飛び込んできたのは、受付もなく、書類の山と文房具で散らかった机が並んだザ・アナログの世界といった様相のオフィス。ジロリとこちらを睨みつける従業員の方の、不審者を見るような鋭い目つきに気おされて、気づけば反射的に「閉」ボタンを連打していました。その日は慣れないスーツと革靴で歩き回り、身体はボロボロ。靴擦れができて、痛む足を引きずりながら帰りました8。

確かに、エンジニアにとっても営業活動から学べることはあります。しかし、それをこの飛び込み営業という形でやることに、到底納得ができていませんでした。何より嫌だったのは、当時の会社全体に漂う「気合い」を評価する空気です。遅く帰社すると褒められる。辛い目に遭うことが美徳とされる。そんな前時代的な考え方が、どうしても肌に合いませんでした9。

野蛮なハック、その始まり

そこで、私は決めました。自分なりにルールを変えて、勝手にやろう、と。

営業研修で目指すのは、受注金額の最大化です。闇雲にアプローチするよりも、受注確率の高い活動を増やすほうが合理的です。ならば、と私は独自の戦術を考え、実行に移しました。

まずは、禁止されていたテレアポの解禁。オフィスで電話をかけたらバレるので、外に出た後、カフェから既存顧客に電話をかけます。製品のアップデートやライセンス数の変更を検討しているようなら、その場で商談を入れる。訪問時には、エンジニア目線で製品のフィードバックを徹底的にヒアリングする。

名刺獲得ノルマもハックしました。最初の一週間で数十枚をかき集め、ストックを作る。あとは毎日、そこから五枚をランダムに提出してチェックをパスする。飛び込みも継続はしますが、あくまでストックの補充や新規開拓のため。一日数件に絞りました。

これらはすべて上司の許可なく独断でやったことです。もちろん褒められた行為ではありません。ルール違反であり、独断専行です。汗をかいて飛び込み営業を続ける同期への罪悪感もありました。でも、こちらも必死です。綺麗事を言っている余裕はありません。まずは生き延びる。そして研修後、「この研修は無意味だ」と証明し、来年度から中止するよう提言するために結果を出す。そう目的を再設定しました。

このハックの効果は劇的でした。毎日朝から晩まで歩き回る必要はなくなり、体力も消耗しません。数字上は真面目な営業マンとして振る舞いながら、生まれた余裕で自分の営業活動を振り返り、改善策を練ることもできました。盲目的に歩き回るよりも、はるかに有意義で効果的です。効率化のおかげで、ノルマ自体は午前中で完了。あまり早く帰社すると怪しまれるので、残りの時間は、夕方まで漫画喫茶で過ごす。

こうして私は、あの手この手で研修をハックし、地獄の営業研修を生き延びました。

当時の私は、これを単なるサボりだと思っていました。しかし今思えば、このときの私には、理不尽な現状を打破するために必要な「野蛮な心」が確かにあったのです。理不尽なルールに従うくらいなら、自分の信じる正しさを選ぶ。組織の決めた枠組みが間違っていると感じたら、それに抗う。洗練されたやり方ではないかもしれないけれど、自分の直感を信じて行動する。そんな粗削りで原始的な衝動です。

本書は、ごく普通のエンジニアだった私が、この「野蛮な心」を頼りに、組織の常識に立ち向かっていく物語です。スクラムという、チームで問題を解決するための枠組みを実践しながら、綺麗事だけでは動かない巨大な組織を泥臭く変えていく。その変革の記録です。

注

  1. 企業が公式に運営する技術ブログのこと。所属するエンジニアが開発の裏側や技術的な知見を発信します。当時は企業・個人を問わず、エンジニアがブログで知見を公開し合う文化が盛り上がっていました。 ↩

  2. 最初に挑戦したのはC言語でした。分厚い入門書とMicrosoftの開発環境を揃え、見よう見まねでインストールし、「さあやるぞ」と意気込んだのを覚えています。ところが、どこに何を書けば動くのかがまるでわからない。悪戦苦闘の末に画面へ「Hello World」の文字を表示できたのが精一杯でした。今思えば、コンピューターそのものへの理解が浅すぎて、プログラミング以前の問題でした。 ↩

  3. 2000年代半ばに広まった、Webの使われ方やサービス設計の変化を表す言葉です。それまで多くのWebサイトでは、情報提供者から利用者へ一方向に情報を届ける形が中心でした。そこへ、ブログや動画共有サイトなど、利用者自身が情報を発信し、他の利用者とやり取りするサービスが広く使われるようになりました。GmailやGoogleマップのように、ブラウザ上で高度な操作ができるWebアプリケーションが普及したのも、この時期です。 ↩

  4. 会社やチームでの情報共有を支えるソフトウェアの総称です。スケジュールの共有、会議室の予約、掲示板、ファイル共有、各種申請といった機能を一つにまとめ、社内の連絡や調整を効率化します。 ↩

  5. 当時のamachangさんは、JavaScriptの第一人者として絶大な存在感を放つハッカーでした。エンジニアらしからぬ渋谷系のファッションとキャラクターにもカリスマ性があり、「こんな人がいるのか」と衝撃を受けたものです。後にkintone初期の大規模なフロントエンド実装を数か月ご一緒することになるとは、このときは想像もしていませんでした。 ↩

  6. 当時の西尾さんは、大学院の短期修了での博士号取得や未踏ユース採択など、私から見れば「別世界の優秀な人」でした。緑を基調としたブログでPython関連の技術発信もしており、研究室でPythonを触っていた私の記事を見つけてくれたのだと思います。入社後には、kintoneでおすすめのグラフを提案する「おすすめグラフ」機能の開発をご一緒しました。 ↩

  7. Ruby on Rails(Rails)はプログラミング言語Rubyで、DjangoはPythonでそれぞれ書かれた、Webアプリケーション開発のためのフレームワークです。どちらも2000年代半ばに登場し、Webサービスを効率よく作れる仕組みとして、当時のエンジニアの間で人気を集めていました。 ↩

  8. 同期たちもそれぞれに苦労していました。怒鳴られた、製品の要望を延々と聞かされた、茶飲み話に付き合わされた……。私も訪問先で、製品への不満をひたすら聞き続けたことがあります。 ↩

  9. ある日、同期の一人が営業方針をめぐって先輩社員と言い合いになり、そのやり取りが会議室の外まで漏れ聞こえてきたことがあります。しまいには「お客さんに嘘をついてでも売れってことですか!」という声まで聞こえてきました。 ↩